これはあくまでも私自身の事を説明するものである。「人間性」なんて千差万別、同じ50dBの人間が同じ人間性を持つ事になるワケがない。あくまでも参考程度に読んで欲しい。
コミュニケーションが億劫
まず、第一に言える事、それは「コミュニケーションが億劫になる」という事である。幼少の頃から難聴であると、他人の会話に口を挟む事もないし、会話がすれ違う事を何度も経験する為、まず人と話す事が苦手になる。かと言って、寂しい気持ちもあるので、やはり人と話したい気持ちもある。時間を掛けて徐々に私の事を理解してくれている友人達が私にはいっぱい居る。その人達から時たま飲もう、などと誘われる事があるが本当に嬉しくて仕方が無い。だが、基本的には一人で居る事を好む傾向にある。その為か、良く一人で海までドライブに行ったり、スノボーに行ったりなどした。おまけに日本一周旅行も一人でこなした。一人で居る事は快適でもある。だが、最愛の理解者が居る今では、その人と一緒に居たい気持ちが強い。
声の大きさで人間性を判断してしまう
私の場合、ぱっと見がどんなに好印象で素晴らしい人間性の人であっても声が小さく聞きづらいと、途端に「この人はダメだ――」となってしまう。むしろガサツな大きな声の人の方に好印象を持ってしまう。不思議な事に声量の違いで他人を判断する傾向にあるようだ。
選民意識
自分は選ばれた人間なんだと考える時期が私にもあった。大人になれば勘違いにすぐ気付くが、他人と違う個所を抱える人間はそれが障害であろうと、その理由を考えたりするものだ。どうして耳が悪いんだろう?――きっと神様が与えてくれた試練なのだ――などと自惚れる事もある。私の場合、普通の学校に通っていたため、聞こえない事をより一層自覚する傾向にあったと思う。健常者と障がい者の間に立ちはだかる、決して乗り越える事の出来ない壁。みんなと同じように向こう側へ行きたいと憧れ続けていたのだと思う。今ではそんな憧れなどは全く感じないが「耳が聞こえないからこそ、何か得たモノがあるのではないか――」と今でも時々考え込んでしまう。
会話の内容に自信が持てない
これは良く起こる「聞き間違え」が度重なるからである。良く聞き間違える。子供の頃からずっとである。そうなると、私の耳に入る情報をまず信用出来なくなるのだ。自分で自分の耳が信用出来ない。そうなると会話の内容を復唱する事が多くなる。「え?何歳ですか?って聞いたんですか?」などと質問の内容を確認する。勘違いして回答するとそこで会話が食い違い、不信感を抱かれる事になるからだ。
初対面が苦手
これは難聴とは関係ないのでは?と思われるかも知れないが、私の場合、その人の声がちゃんと耳に届くだろうか、などが心配の種となり苦手となってしまう。
読書ばかり
テレビの内容がほとんど分からなかった為か、読書する機会が多かった。振り返って考えると、この読書は重要だったなと今でも思う。おかげである程度の文章力を獲得出来たのではと自負している。聴覚障害者はとかく日本語が苦手になる。言葉は聞いて覚えるモノだからだ。これを改善したければ、本を読むしかない。ろう者ともなるとそれでも難しいが、私程度の難聴であれば補聴器を掛け、良く言葉を聞き、読書を多数こなせば改善できる。
たまに漢字の読みがわからない
最近の例で言うと、今現在(2010年6月)の総理の名前は「菅 直人」氏であるが、これの読み方はご存知の通り「かんなおと」である。だが、これを私は間違って覚えていた。「すがなおと」と読んでいた。いくら読書を重ね、新聞を読み、ネットで情報を集めていても、漢字にルビを振ってくれているのは皆無なのだ。一般の人なら、テレビで「かんなおと」と聞き、普通に頭に「かんなおと」とインプットされているので、上記の「菅 直人」がちゃんと「かんなおと」と読めるのである。だが、文章だけで情報を集めていると、読み方が分からない名前については一旦仮の読み方で読んでしまうのだが、その正誤を確認する方法が無い為にそのまま覚えてしまうのだ。ふと思い出したが、あの「槇原敬之」も「まきはら」なのか「まきわら」なのか未だにわからない。
子供の頃はとにかくニコニコ
性格はとにかく軟らかくなる。相手の機嫌や顔色を読み、空気を敏感に感じるような子供だった。聞こえない事をにこにこ笑いながらごまかす事しか出来なかった。平和的にしていればとりあえず害は無いだろうと判断したのだろう。今でもニコニコは得意であるが、大人になった今では怒る重要性も理解し、怒る事もけっこうある。※キレるとは違い、仕事上で大事な叱咤激励?