あるメールを頂きました。
HP上に1ページ追加してほしいです。
「聴覚障がいを持っているが、楽しく過ごしてきた!&楽しく過ごしている!」という内容を。Motoki様のコメントにあるように『だが私自身、悲観に満ちた人生を歩んで来た事は無い。「素晴らしき人生」と断言する事も出来る。』この部分で1ページ作って欲しいのです!
私のような難聴児を持つ親に対して「元気・勇気・希望」を与えて欲しいです。 ネット上ではどうしても悪い情報が印象強く「我が子もこういうことになるのか…、下を向いて歩く人生なのか…」と悲観的になってしまいます。
健聴ではない我が子に人一倍、いや人の100倍の愛情を持って接することは承知しています。是非、「難聴ではあるが、年少期、青年期、社会人の時に楽しく過ごせた事柄」を教えてください!
※ご本人様の許諾により一部抜粋、編集
ご意見をいただき、改めてホームページを見直してみると、確かに悲痛なニュアンスを放っているかなと反省しております。当ホームページの目的は難聴の実情を解説し、周囲の人々――特にご家族の方々のご理解を助ける為に立ちあげたつもりですが、負のイメージを与えてしまうのであれば、それは私の本意ではございません。
改めて断言しますが、私自身、人生楽しい事だらけです。難聴の事ばかりを意識している人生を送っているわけではございません。当ホームページ上では難聴の事しかピックアップされておりませんので、私が悲痛に満ちた人生を歩んで居るかの様な印象を与えているのかも知れません。花粉症の人が年間に一時期だけ悩むが、生涯を通して悩んでいるわけでは無いのと同様、私も難聴である事を意識せずに楽しく過ごす事の方がはるかに多いのです。
難聴である当人にとっては、不便な面はあるけれど、実はあまり悲観にくれているワケでは無いのです。中途失聴者は少々辛いかも知れませんが、物心ついた頃からの難聴者である場合、何しろ「難聴である事が当たり前」なのですから。自然と難聴である事に慣れ、むしろ補聴器を外してシーンとした時間を大切にする余裕もあります。ですから、自分以外の障がい者を目の当たりにして、「大変だなー」などと感想をもらす事もあるぐらい、本人にとっては「普通の事」なのです。確かに不便ですが、同情されたりすると「え?俺って可哀そうなの?」みたいな違和感も感じます。意外と苦労してないんだなーと言われると腹が立ちますが…。
ここに私の人生を振り返ります。 ですが…全く普通の人生です。退屈で読んでいられないかもしれません。 長くなるとアレなんで、短く簡潔にあちこち散りばめる感じで書きます。
いきなりだが、正直、モテた
正直、結構モテた人生だと思う。
お付き合いしている彼女さんがおり、当サイトの事も伝えてあるので、こんな所を読まれたらアレだが「彼女欲しいよ!欲しいよ!」などと悩んだ事は一度もない。
難聴である事は対人面において決してマイナスにならないという事。
当人の性格によるのかも知れないが――変にネガティブ思考になるのは難聴で無くても嫌われる。しかし、難聴者はたぶん打たれ強い。良く彼女に「超、前向きだよねー」って言われる。確かに、頭を抱えしゃがみ込むほど落ち込んでも、そのままクルクル回ってバーってやれば勝手に気分が回復する。どんなに腹が立っても寝て起きればケロっとしている。
音楽はやっぱり好き
音楽がわからないと書いたが、基本的に音楽は大好きである。
中学生の頃はBOOWYが大人気であり、姉の影響で私もよく聞いていた。そして久保田利伸の「Timeシャワーに打たれて」を聴き、なんてファンキーなヤツ!と驚愕し、久保田利伸にもはまった。部屋で歌い、姉貴にうるせー!!って怒鳴られた事もある。
高校生の頃はお年玉で買ったソニーのウォークマンを愛用していた。補聴器を外さなければ聞けないので、ボリュームは目いっぱいMAXボリューム。電車など乗らないので音漏れなど気にせず自転車をこいでいた。
洋楽では友人の影響で少々レトロで定番過ぎるが、ビートルズやクイーンが大好きである。特にフレディの歌唱力は私の耳に心地よく、脳髄を刺激してくれる。
まだ二十の若造の頃は東京に住んでいたのだが、友人と六本木までクラブ通いし、よく踊ったりしていた。当時はパラパラ等が大盛況だったが、私はもっぱらレゲエに合わせ踊るのが好きだった。当時のレゲエ曲を聴くとやっぱり当時の事をまざまざと思い出す。
今は僻地に住んでいるので基本的に移動は全て車なのだが、iPhoneにお気に入りの曲を入れて車内でガンガン流し、それに合わせて歌う事もある。イエイ!ヤッホー!とシャウトする。
カラオケはノリノリだった
友だちとカラオケにもよく行った。カラオケは苦手であまり歌いたくないのだが、それは友人も良く理解していてくれた。時々歌う事もあるのだが、やっぱり「へったくそだなー」と笑われる。若いころの勢いか、酔っては踊ってる事が多かった。歌わなくてもとりあえず楽しい事は楽しい。
和太鼓大好き
和太鼓をやっているのだが、メロディーはよくわからんからリズムをやろう、という安直な思考。というか、和太鼓が大好きで仕方がない。和太鼓はもうかれこれ10年はやっているだろうか。和の重みを体現し、和の華やかさを奏でるとでも言おうか。「よ!」とか「は!」とか「せいや!」とか掛け声のあの感覚がすごくかっこいい。
現在在籍している和太鼓会は地元でも有名な和太鼓会であり、年間を通して地域のイベントへの出演依頼などよく声がかかる。「秩父屋台囃」や志多ら(しだら)の「明神」という曲、三宅島にて伝わる「三宅」、江戸時代に完成された粋な「木遣り」…その他オリジナル曲もある。何度か担ぎ桶でソロも経験している。大勢の観衆の前、ステージ上ど真ん中で一人和太鼓演奏は大変緊張するが、気持ちが良い。
ジャンベもやる
ジャンベもやっている。和太鼓を始めた頃からちょこちょこと叩き練習して居たのだが、友人に「ゴスペルの中でジャンベ叩いてくれない?」と誘われ、某クワイアに入会し、様々な舞台でジャンベ演奏を披露している。
ただ、こちらは歌唱がメインなのであくまでも控えめにやっているが衣装は派手にアフリカンな格好で演奏している。ページ下部の「about me」にて自画像を掲示しているが、これがその格好である。近年はアフリカンゴスペルが流行っており、こういうスタイルもありなんだとか。一度だけ、時間の尺を埋めるためにジャンベ隊をクワイア内で結成し、大きなイベントの中でジャンベのみを披露した事もある。ここでも舞台上でソロを経験するが、緊張感の中の高揚感は本当に気持ち良い。
アクティビティ大好き
友人達と頻繁にスノボーに行った。
ヘルメットとプロテクターを装備し、完全防備で白銀を滑走した。パイプ、アルペン、ジャンプなど何でもやった。ほぼ毎週末にスノボーに行っていた時期もある。ただ純粋にスノボーの腕を磨くのが楽しかった。そして軽井沢等でコテージに宿泊して飲み明かすのも楽しかった。
その他アクティビティに関してはさほど熱心だったわけではないが、スケボー、ローラーブレードなどにもはまっていた。
あとスキューバダイビングの認定も取得したが、ダイビングのメッカ、大瀬崎を何度かもぐり、ハワイのハナウマ湾も潜るなどしたがすぐに飽きた。基本的に飽きっぽいのかも知れない。
和太鼓のきっかけ
和太鼓との出会いは手話の世界での事。
聴覚障がい者が演奏する和太鼓団体のリーダーMが声を掛けてくれた。「一緒にやんない?」と。聴覚障がい者は目で見て音楽を感じるんだ!という趣旨の基にろう者が和太鼓を演奏をする――といった団体だった。「俺、別に聞こえるしぃ、リズムは分かるしぃ、場違いじゃね?」とも思ったが楽しそうなので入会した。
そこから和太鼓の世界にどっぷりとハマる。だが、聴覚障がいの団体では、私よりも重度の難聴者とろう者がほとんどを占めて居た為、いかんせん音のずれがひどかった。数年在籍し、基本をみっちり教わったのち、そのずれが余りにも気になり、完璧な和太鼓を目指したい――との思いが強くなる。そして自分なりに他の様々な和太鼓会と付き合い始め、別に聴覚障がい者の団体じゃなくて普通の和太鼓団体でもいいんじゃね?と思い、様々な恩恵を受けたのにも関わらず退会した。手話の世界にほとほと嫌気がさしていたのもある。そこから私と手話の世界とのつながりはゼロとなった。
手話サークル
手話サークルでは様々な経験をさせてもらった。旅行やら、飲み会やら花火大会やらバーベキューやら研修会やら合宿やら…とにかく若者が集まれば楽しそうな事ばかりやっていた。
だが、基本的にはろう者と話すのは疲れて仕方がなかった。まだ声による会話の方が楽だからだ。その為、同じ手話サークルの健常者と仲良く遊ぶ事が多かった。手話サークルの副会長も経験した事もあったが、指導力が薄っぺらいので、会長の補佐役に徹していた。その会長のIさんは私と同い年の健常者だったのだが、サークルの活動内容についてよく喧嘩したりした。
幼少のころ
もっと幼少の頃のお話。
子供のころはとにかく外で遊んでいた事も多かった。缶けり、ケイドロ、鬼ごっこ、メンコ、ローラースケートなど。団地に住んでいたので同じ棟の子供達と良く遊んでいた。通っている小学校まで集団登校していたのだが、同じ面々で登校していたから大変仲が良く、夕方の赤焼けの中、うす暗くなるまで外で思いっきり遊んだりした。畑の中に隠れ家を作ったり、姉貴と空を見上げUFOを探したり、ローラースケートでうろうろしたり、近くの駄菓子屋まで買い物に行き、正月は広大な空き地で凧揚げもする。難聴である事を自覚していたが、会話の妙を楽しむ様な世代では無いから特に不便は感じていなかった。
親父とはよくキャッチボールもした。親父のバイクの後ろに乗せてもらいドライブにも行った。母親に危ないからやめなさい!と親父が怒られていた。釣りにもよく連れて行ってもらった。川釣り、ボート釣り、海釣り、堤防釣り、何でも経験した。冬場に家族全員で凍結した湖上にドリルで穴を開けるワカサギ釣りもやった。ついでにスケートも。家族とは海や山へと、自然の中で一緒に遊ぶ事が多かった。
小学生のころ
小学生のハナタレの頃はK君やH君と仲が良かった。
H君の母親は息子の為に誕生パーティーなるものを開くような人で、誕生パーティーに招待された事があるが、どんなだったかよく覚えていない。H君はよく青い鼻水を垂らしてて非常にばっちい感じだったが、いいヤツだった。
K君は頭の形がハート型をしている色グロな少年だった。彼とはよく近くの市民プールまで遊びに行った。その時、硬くしばった水着のヒモがどうしてもほどけず、トイレの中でとうとうウンコをもらした事があるのだが、それをK君は黙っていてくれた。
クラスの中でSさんというもんちっちみたいな雰囲気の子が居たのだが、その子の家は金銭的にあまり恵まれてなかったのかいつも変な匂いがしていた為、みんなからからかいの対象となっていた。私も子供の頃の残酷性ゆえか、からかったりしていた。すまんSさん。
小学4年の頃、親父が奮発し一戸建てを購入、一家で引っ越しを経験しているのだが、その時はクラスメイトからプレゼントをもらった。
当時の流行と言えばやはりファミコン。小学生高学年の頃から友だちが持ち始め、友だちの家でよくファミコンで遊ぶようになった。スーパーマリオブラザーズには非常にはまった。クリスマスプレゼントにファミコンをもらった時は本当に親父がかっこ良く見えた。
中学生のころ
中学生の頃は卓球少年だった。卓球の腕前は大して上手くならなかったが、同じ卓球部の連中とは良く遊んでいた。
活動範囲も広がり、ジャージでよくあちこち行ってた。マンガをいっぱい持っている友人の家に押しかけ、マンガをダラダラ読む事もしばしばあった。
中学の頃はクラス内の団結が今思えば異様に強く、初日の出をクラス総出で見に行ったりしていた。和気あいあいとした絵に描いた様なクラスだったと思う。
電車マニアでサザンオールスターズが大好きだったT君とは仲良かった。T君は結構な嘘吐きであり、嘘の内容も自慢話めいたものが多かった。だが基本的にはいいヤツなので、よく家まで遊びに行ってた。T君のお母さんや弟さん、妹さんとも仲良かった。
中学生の頃は思い出の宝庫であり、思い返すと輝かしい光に包まれている日々の連続でもある。思春期真っただ中――エロもこの頃覚えたし、恋もした。もちろんジャージを着ている様な田舎の中学生だったから、恋といってもただの甘酸っぱい様な恋であり、特に何をしたわけでもない。
びっくりした事に卒業式の時に第二ボタンをくれと言ってきた子が居た。後輩だったのだが、見覚えのない子であり、シャイだった私は彼女の名前も聴けずじまいだった。
I君元気かな?
ちょっとヤンキーだったIとは小学校から高校まで一緒、かつ家が近所だった為よく遊んでいた。夜中に遠くの自販機までエロ本を買いに行ったりなど、一般的なエロいガキんちょだったIと私。中学校の頃はサッカー少年として活躍しクラスの人気者だった彼は、良く声が通り歌がうまい。高校時代は一緒に自転車で駅まで通っていたのだが、自転車をこぎながら田舎の田んぼ道の中で二人で大熱唱していた。「じゃあ久保田利伸のミッシングな!――ことば~にぃできるぅなら…」と歌うと、彼は大爆笑してくれる「ぎゃははは!ヘタくそー!そうじゃねって!」「ほんと音痴だなー。さ!もう一度!」などのやりとりが懐かしい。
SとA
進学した高校は男子高であり、随分と殺伐とした雰囲気の校舎であった。その頃仲良くなったSとAは社会人になっても良く遊んだりした。
東京の学校に進学した時は何故かAも一緒だった。Aとは色々遊んだ。夜中のドライブ、カラオケ、クラブ、ビリヤード、などなど…ちょっと洒脱な大人な雰囲気にあこがれ、当時の流行をおさえようとがんばった。オシャレにも目覚め、色々な服を買うようになったが、当時は金が無くもっぱら古着が主流だった。私はUターン就職という事で地元に就職が決まり、Aは東京で就職した為、一時離れ離れだったが、程なくAは退職し、地元で家業を継ぐ事になる。
Sは高校の時、初めて隣の席になった時、なぜか私に手品を披露してきた変わり物でありエンターテイナーでもある。彼のお笑いスキルは非常に高く、絶えず冗談を言い合ってゲラゲラ笑いあっていたのが懐かしい。
地元に就職が決まり財力に余裕が出て来ると行動範囲は更に広がった。昔から欲しかったミニクーパーをローンで購入し、あちこちうろうろしまくった。仲間同士のただのドライブなのだが楽しくて仕方なかった。地方都市の駅前のロータリーは夜になるとナンパ天国、当時3人で誘い合って良くナンパに繰り出していた。駅前周辺を車に乗りながらうろうろし、女性が乗っている車の後ろにつけパッシングする。女性達がOKだったら路肩に止まってくれるので、その横に停め、車の中から身を乗り出しお互い話す。とは言っても私はトークが苦手なのでほとんど運転担当、助手席に乗った友人がトークしてくれる。その流れでコンパなどにも参加したが、こちらはあまり楽しくはなかった。Aに「わりぃ、こういう飲み会になるとほとんど聞こえないんだわ」と打ち明けた事があるのだが、彼は号泣していた。いいヤツだ。
最後になりますが…
以上になります。適当に端折ってありますが、全く普通の人生を歩んで居る事をここに列記しました。私は難聴であるが故に特別暗い人生を送っているでしょうか?振り返ると、和気あいあいと楽しい日々で溢れています。
周囲の環境によって様々な方向に人生は流れていきますが、それは難聴であろうと健常者であろうと全く無関係です。
トップページに記載しました通り、疎外感、孤独感、無能感――などの感情も時たまふっと湧き上がりますが、本当に時々です。人間ならば誰しもが要所で要所で感じる不安な気持ちと何ら変わる事もないと思います。
※少々読みづらい箇所などありますので、後日修正または写真を追加致します。